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 ▼ マルグリット・デュラス『インディア・ソング』 (75 仏)


 倦怠と頽廃とが充満しきってる。死んだように動かない映像。そこには眠りを通り越して死のにおいまでしてくるというもの。
 映像というより一枚の大きな画面におさまりきらない絵画をゆっくりゆっくりとカメラがパンしてくれることで味わっているような気持になってくる。変化は?ほとんど全くと言っていいほどない。実際、淡い太陽が沈むところから始まって、初めの10分近くは人っ子ひとり出てこない。舞台となるカルカッタにある1930年代のフランス大使館、森、テニスコート、自転車、黒いピアノ、写真立て、そして煌めくワイングラスなどなど。それらがまるで時間の流れがとまったように凍りついている。唯一動いているものといえば、香を焚いている煙だけ。やっと登場した人物でも時速0.8kmの速さでしか動かない。これが最後の最後まで続くのだった。そしてその人間たち、モノたちを、別の視点から見たように語り続けられる。夜会が行われているようでもある。が、それすらも、遠くから聞こえるざわめきだけがそう伝えているのみで華やかな光景というのは全く見えてこない。目の前にあるのは、じっと床に横たわる女(デルフィーヌ・セイリグ)、男がやってきて女の横に横たわると、男も動かない。ただ動くのは女の肩に置かれた手だけ。
 大きな鏡のある広間―この映画の大半はこの鏡の前で費やされる―鏡の前を女が、男が横切る。この鏡は非常に象徴的に、あるいは意図的に描かれている。それはそこに映しだされる人間は、鏡の中の人間であったり、鏡のこちら側の人間であったり、つまりは彼岸と此岸だと。
 ところでこの広間を見ているとすごく演劇的に思えてくる。というのはこの大鏡を含めた広間が舞台装置で、そこに俳優が配置されているのだと思える。しかも詩劇。それともうひとつこの映画の特異なのは登場する人間たちはその中で直接話すことはない。ある第三者による語りと、彼ら自身であろう声が重なるだけで、口を動かすことはない。極端な話、人形劇だと言ってもおかしくない。つまりふっと「死のにおい」と書いたけれど、死後に現生を回顧したときにこのような映像、語りになるのでないかとも思えてくる。あ、まさにそうなのかもしれない。 その中で静謐な池に投げ込まれた石のように、副領事の叫び声がこだまするが、それとてやがて波紋が静まっていくように元の静謐な中に吸い込まれていくのだ。すべてを飲み込んでいく超越。そこにいま何を求めるのか。
 この中に描かれているのはほんの夜から次の日まで、わずかまる一日のできごとにすぎないのに、もっと長い時間について描かれているような気がする。
 カルロス・ダレッシオによる「インディア・ソング」が耳について離れない。ちなみにデュラスの葬儀の際にはこの「インディア・ソング」が流されたそうである。

★★★★  




2001年11月20日(火)
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