あわてて出たものだから、いま読みかけの本(『箱崎ジャンクション』)をもって出るのを忘れ、仕事場の別室のダンボールの箱の中から本を物色してたら、出てきたのが詠美の『AMY SHOWS』。これ一冊できょうの空き時間をつぶすには心もとないのだけれど仕方がない。別にこの『AMY SHOWS』がつまらない本だと言ってるわけでもなくて、きのう喋ってたように、元々エッセイ集というのはボクも好きじゃないから。エッセイというのはノンフィクションですよという顔をしてフィクションだからね、ホントのような顔をしてウソだから、まさにエッセイとは似非だとまで言う気はないけれど、とにかく作家の舞台裏を見せてくれなくてもいい、彼、彼女が作り出してくれる世界を味わっているだけでいい、そのような理由でエッセイというのはあまり読む気がしない。
それでぱらぱらと手当たり次第に目に付いたところだけ拾って読んでいたのだが、この『AMY SHOW』の後半は本に関わること、詠美がたとえば林真理子の『星に願いを』の解説のために書き下ろした文章などが集められている。
と、書いてちょっと自分で苦笑い。というのは
《今に見ていなさいよ。私は、そのうち、林真理子みたいに有名な作家になっちゃうんだから。(もちろん当時はただの読者なので敬称略である)と、心の中で叫んでいたのだ。》 (下線部まご)
うはは、永遠に読者です、ボク。
あ、また横道にそれた。元に戻して、ここに集められた作家は、もちろん敬称略で、林真理子、田辺聖子、森瑤子、辻井喬、村上龍、安部譲二、群ようこ、景山民夫、藤堂志津子、佐伯一麦、光野桃、原田宗典、森詠、黒木瞳、花村萬月、松野大介といったラインナップ。うぅん、このうちちょっとでも読んだことあるのは7人だけか。半分弱(范文雀という女優がいたな。好きだったのに)か。もちろん集合と集合のandなので、半分弱というのは多いのか少ないのか。こういう書評とかを集められたら、読んだことない作家、たとえば光野桃の『おしゃれの視線』の書評を読んでもつまらないんだよね。ときにはそれがきっかけになって、読み始める作家というのもいるけれど。それと、この『AMY SHOWS』に限らず、書評集を見ると、ずらっといろんな作家が並んでいて、よくこれだけ本を読む時間があるもんだと感心する。彼、彼女らは、読むだけじゃなくて書いてるわけで、本来の書く時間のほうに多くを割かれるはずなのに、そこはやっぱりプロなんかな。ボクなんか、まだ人に比べればよく本を読むほうだけれど、それだけの書評を書くためには、倍の時間をかけてじっくり読まないと書けないだろう。となると、ますますそのための時間はどこから盗み出してくるんだろうと思う。逆に僕自身はどこにスポイルされてしまってんだろうと思う。
というわけで、村上龍の『すべての男は消耗品である』についての「もしかしたら努力の人?」と題された文章を読む。たぶん前にもさっと読んだことあったはずなんだけど、ちょうど龍について喋ってたことだし、『消耗品』は龍の中でさいてーの部類の文章だと言ったからね、さて詠美がどう書いてるかと思って読み出した。同業者さんとして、けちょんけちょんに書くわけにもいかないだろうしね。
《私はこの本が大嫌いである。村上龍本人が嫌いなんじゃないよ。こういう本に拍手を贈る読者を作り上げたこの本が嫌いなのである。》
ホッとした。この本を詠美が褒め称えたら、ボクの持っている詠美はすべてドブに捨てないといけなくなる。そして『消耗品』から引用して
「芥川賞なんて、二十代で簡単にとって、億単位の金のかかった映画をサラっと撮って、スクーバダイビングとテニスをして、一年のうち六十日は南の島に行って、速いヨーロッパ車に乗り、無数の女とうんざりするほどいいセックスをしていないと、いい小説は書けない」
この一文はいいねぇ。ボクは『消耗品』は読みかけてムカムカしてきたから、びゅんびゅん読み飛ばして、最後まで読んだかどうかさえ忘れてる。こんな一文があったかなぁ。詠美も「ひとつだけ感動している」と書いてこの一文を引用してるのだが、ほんとこれは的を得ている。ハングリーで小汚い擦り切れたGパンを履いて、毎日コンビニのおにぎりで糊塗して暮らさないといい小説はかけないというのなんていまや幻想だよね。とにかくいいセックスをしないと。ああ、したい、したい、したい。
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